昭和40年05月11日 朝の御理解
神と仲良うする信心ぞと。「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と、「人を軽う見な」とね、「人を軽う見たらおかげはなし」と、それは、人だけのことじゃないと思う、「物を軽う見な」ということも言えると思います。物だけではなく、物事という場合でも同じことだと思う、「物事を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」という風にも頂けると思う「人を軽う見な、」と軽う見たらおかげはないとも、おかげはなしと、こうはっきり断言した、御教えですねえ。
だからそれは、人を軽う見るということはわたくしは、物を軽う見るということも同じことだと思う。ね、「物を軽う見な、物を軽う見たらおかげはなし」と、物だけではない、物事の場合でも同じことだと思う。「物事を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と、蟻の一穴から堤防が切れるという。蟻のような、蟻の、小さい穴をほがしておる、堤防に、そこから堤防が切れるようなことにもなる。どんなに受け入れ状態が素晴らしかっても、ね、締めくくりが悪かったら、そこから抜けてしまうようなもの。
どんなに金儲けの名人でも「ね」、小さい金だからというて粗末にする人は、金儲けは上手でも、お金は残りはしません。「ね」、お金儲けの名人といわれるほどしの人ならばです。人ほどに小さい金を大事に致します。おんなじだと思う、わたくしは、教祖、そういうような「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と。円朝と言う噺家の名人があった、もう、即席の話が特に得意であった。
例えば季節なら季節で、秋なら秋夏なら夏とお題を出しますと、夏なら夏秋なら秋でもう、即席でその話をした。ので有名だったということですね。ところがある時に望まれて昔々の物語、あのう桃太郎の話を望まれた。お互いが子供の時から、それこそ何べん何十篇となしに、親からでも先生からでも聞かせてもろうた話、また自分もした誰でも出来る話、誰でも知っておる話、ところがさすがに円朝です。
話しかかったけれどもどうしても出来ん。もう生汗が出てきた。ね、いかに有り触れたことが当たり前の事が、難しいかという事を、悟ったということです。在り触れたこと当たり前な事いうならたった、そのくらいの事と言った様な事がです。やはり実を言うたら難しいのです。ね、例えばお金でもどんどん儲かりよるときにはです。100円、200円の金は、やっぱり湯水のように何とも思わんな使うのが普通、それを大事にするということは確かに難しいです。心掛けとかにゃ出来るこっちゃないです。
風が良かりゃていちょうに扱う。風が悪けりゃそまつに扱う。その風が悪い人がどげな、いうならばです金儲けのことを持ってきて下さっとるか分からんのです。ね、本当に私は、そこんとこを信心させて頂くならば、大事にいわゆる、当たり前のことを、ね、当たり前のことを、当たり前にさしてもらう。信心さして頂いときゃそういう考え方をさして頂くのが当たり前。
教えを日頃頂いとるならば、そうあるのが当然なのである。当然のことが、当然のこととして出来ていないところに、そこから私はおかげが漏れておる様な事はないだろうかと、思うて見なければいけないとおもうですね。昨夜も私話したことでしたけれども、昨日、夕方、夕方とゆうかもう月次祭が始まるちょっと一時間ばっかり前でした、ここのお土地のことでいろいろお世話頂いておる、中鶴さんがお見えられた。
その前の日も見えられた。それもやはりどっか宴会か何かの帰りで、昨日も、一昨日もでしたけれど、相当お酒を召し上がってから見えた。それは自分としては、間違いのない話をしとると思うておられるかも知れんけれどもです、やはり聞いとってからやっぱり、おんなじとこを繰り返し繰り返し言うておられるとこから見ても、ああこれは、茂、酔うてられるなとこう思うのです。
まえの日は、ちょうど善導寺の、茂さんが見えとりましたから、茂さんに相手をさせて、「もう、お酒飲んであるごたるから、冷たいなんか、冷たいものでも上げてください」、と言うて、まあビールでも私は上げて、そして帰られるときには、どうぞ自動車ででも送ってあげて下さいというて、私は御祈念にかからせて頂いた。ですからそのとおりのことをしておられる。
昨日はちょうど、お月次祭の準備で、いわば手おうざおうしておる時でしたが、私はちょうど私は、「お風呂に入ってくれ」と言うてきておりましたから、久富先生にお願いして、わたくしは、あのう、その方に「(わざ ちょっと?)風呂に入らしてもらうから、失礼致します」とゆうて、わたしは、お風呂に入った、上がってきたらもう、おんなさらじゃった。
丁度あの、むつ家がお供え物もって、あのう信司さんが見えたということをきいたから、私は信司さんの車で送ってもらったもんだと、こう思ったところが、いいえ信司さんは、お供えを持って来なさった、それを知らずに久富先生は立たれた、立たれた後に帰っておられたとこういう。あら「そりゃすまんことしたねえ」やっぱ、用があるからこそ、飲んどっても気にかかることがあるからこそ、やっぱり寄って何かを言おう、何かをという気持ちで、まあみえたのに、違いはない。
何かとお世話をかけておるのであるから、ありゃ妙なもんですよ。酒を飲んだときなら、言いたいことも言えれるのです。だからわざわざ酒を飲んでから行くような人すらがあるくらいです。だからそう言う時にですお前飲んでおるからと言うて、あのうあしらわれたらですこげん腹の立つことはないです。酒は飲んでることは分かっとっても、ね、それを丁重にされると、そのこれは酒飲みの心理でしょうね、大事にされるとやはりこっちも、何か考えなきゃおられないようになってくるです。
例えばこりゃまあ話が違いますけどねえ、酒を飲んで難儀をしておる困っておる人と言う様な場合でもです、さあ「親父が酒飲んで帰ってきた」と「また飲んできた」ち、言う様な顔をするからです、やはり酔狂になってくるのですよ。「おとっつぁん今日はよか気色になってから」と、かえってそれにね合わせるような気持ちになったらです、あのおかげを頂けれるのですけれども「また飲んできた」ということでもう受け入れるほうが喧嘩ごしでおるもんですから。
それが結局酔狂になって、愈々難儀が難儀になって来るんだと私は思うんです。それこそ「飲んで管巻きゃなお可愛い」ち、言うごたる、こっちが気持ちになったらです、ね、私は酒飲みの酒飲んで難儀をしておると言う人たちでも、そこに私はおかげ頂かれる道はそう言う所から、開けてくるのじゃなかろうかと、そう思うんですねえ。だからそう言ういやだなあと思える時ほど、大事にしなければいけないという事です。
だからここへ又、飲うでからやって来たと、心に思うときにはです、だからせめて形の上になりとも、大事にせなければいけんです。いま私はそんなこと話したことでしたけれども、ね、自分の心の中に惜しげがついたらです。例えば、ほんならお茶を出す。お茶菓子が色々まあ、羊羹もありゃその駄菓子もあるとするか、ね、それけん羊羹の方だけは、良かお菓子じゃからとっておきたいと言う様なです心が起こったら、私は必ず羊羹の方を出しますですね。これは私は昔からですこれは。
そういう心が神様に私はかなわんと思うですね。ね、ですから心に例えば軽う見るような場合が心にあったならです、相すまんとそれを返って丁重に扱うというような、いきかたがなされなければこうバランスが取れませんですね。私はそれは信心させて頂くものの一つのまあ努力だと思う。「人を軽うみな、軽う見たらおかげはなし」と、「物を軽う見な」と「物事をかるう見な」と、理屈はおんなじだと私は思うです。
だから「人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし」と、仰しゃるのでございますから、その、反対のことを言うたらです、ね人を丁重に、神の氏子なら神の氏子として、一つのその問題をです、事柄をです。神様の差し向けてくださったその、事であるとして、丁重に扱わせて頂けば、軽う見るようなことでも、丁重に扱わして頂けば、おかげがあるということにも、なるんじゃないですか。
どんなに、例えば、人の出来ないようなことがです、人一倍出来ましてもです、「ね」、ほんの最後の締めくくりの悪いばっかりに運が抜けてしまうといったようなことが在ってはならんと私は思うんです。どんなに金儲けが、名人であってもです。「ね」、小さい金を粗末にするようなことであっては、ただ、金儲けが名人ということだけであって、金を残す名人にはなれません。
信心させて頂くものは、ここんとこを本当にわたくしは考えなければいけないと思うんですね。例えばほんならこれは、もう大変失礼な話なんですけれども、前の日も飲んで見えた中鶴さん、私が丁重に扱った、丁重に自動車で送ってあげた、あくる日もまた見えた。また、お茶の一つも上げて、私はだから、あのう、お茶漬けでもよいから、夕ご飯の時期ですから、「茶漬けでもいいから一杯上がっていってください」と。
それで、その、風呂から上がったらもう、おられなかったと。ですから例えば、昨日もです、例えば、酒のあとですから、ご飯はあがんなさらんに致しましてもです、用意だけでも、してごらんなさい、どげん気持ちがよいか、ね。もう済まんけど、ちょっと送ってあげてください、で、なかったら、ハイヤーやとうてから、そこまで送りますから、百円か百五十円のことですから、それだけのことしてあげてごらんなさい。
その、幾らなんでもです、なあんでもない、ちょっとした用事で来てから、そして、もうそこで、お茶を世話になったり、お酒を世話になったり、また、帰りには、ハイヤーで送ってもろうたりすりゃ、そりゃ考えますよ。誰だって。前の日に丁重にして、あくる日に丁重にしなかったら、もう前の日に丁重にしたことまでが、お仕舞になってしまうじゃないですか。「ね」、そういうところからです。
おかげが漏れるです。これは一つのまあ人だけではなくて、物事となってくるわけですね。ね、どうぞ一つおかげを頂かせていただきましてですね、当たり前のことは当たり前に、信心させて頂いておれば、このくらいのことは、こう思わせてもらうのは、当たり前、こうさせてもらうのが、当たり前。分かっておりながらそれを、軽う見る。それから(いわいる?)、おかげはなしと、もうおかげはなしと、極まってしまうようなことでは、もったいないじゃないですか。
ですからここまでは信心のないものでも、信心のあるものでも同じような具合にやりますよねえ、誰でも金儲けの名人にもなりたいと思う。自分の都合のよか人の為になら、やはり大事にすると思う。けれどもそれとは反対のことでもです、それを大事にするおろそかにしない軽う見ないという、そこが私は信心じゃないかとこう思うのですよ。どうぞ「人を軽う見な軽う見たらおかげはなし」と、ということはです。ね、沢山のお金なら大事にするけれども、小さいお金は大事にしない様な事では、金儲けはでけんぞと、仰るのも、理屈は同じことだと私は思うんですね。
おかげを頂かなければいけません。